老いらくの社会科

日本に暮らす老日本人生活者が社会について思うこと

ChatGPTに乗り遅れるな、というプロパガンダ

AI全盛期の到来か?

イラストを描き始めて4年半になりました。相変わらず、つまらない絵を描いています。

絵を描いていると、当然ながら流行りのAIについての情報が否が応でも耳、いや目に入ってきます。この1年ほど前からPixivにも多くのAIが生成したイラストがアップされ、イラストレーターが描いた絵の数を凌駕する勢いです。

そんなわけで、AI生成サイトのひとつを試しに使ってみました。いくつかのキーワードを入れるだけで、わずか数秒ほどで複数案の候補を出力してくれます。一見するとスゴイ技術に感じられます。

AIって、基本的にコピーじゃないの?

イラストAIや文章で返してくれるChatGPTなどの会話型AIの中身ってどうなっているんでしょう。

そこでMicrosoftのBingChatを使い、

「会話型AIの学習方法について教えてください」

と聞いてみました。

その答えが以下になります。

会話型AIは、大量のデータを学習し、自然言語処理技術を使用して、ユーザーと対話することができます。 会話型AIは、機械学習アルゴリズムを使用して、ユーザーの入力に応じて自己学習します。 これにより、会話型AIは、時間の経過とともにより正確な回答を提供できるようになります。 IBMのWebサイトによると、会話型AIは、発話やテキスト入力を認識し、複数の言語のあいだで翻訳・通訳を行うことができます1

また、ChatGPTはインターネット上の膨大な情報を学習しており、すぐに回答を提示することができます2

このように、会話型AIは自己学習することで、時間の経過とともにより正確な回答を提供することができます。

だそうです。

WEB上の情報から文章を組み立てているようで、参照したサイトがリンクされています。

「大量のデータを学習」とありますが、コンピュータであれ、個人であれ他の人が作ったデータをそのまま使う場合、それってコピーってことじゃないんでしょうかね。機械による機械学習とは、一旦100%完全な情報を取り込むということであり、その部分については単なるコピーとしか思えません。

もちろん、人間が学習する場合も、コピー、あるいは手書きで丸写しすることはしばしばありますし、あくまでも個人的な使用範囲であれば問題ないことになっています。

問題になるのは、商用、あるいは自分のものとして公開する場合です。

今のところAIが出力したものは、パブリックドメイン(誰もが自由に使えるもの?)となっているようです。他人の作品をコピーした可能性がある上にパブリックドメインと言い切るのもどうか思いますが。

ところが、出力したものを自分の作品と勘違いしている人もいるらしい。

AI絵師という摩訶不可思議な存在

AIを使って画像を生成した方の中には、自身をAI絵師と名乗っている方がいるとかいないとか。もしそれが本当なら、出力したデータを自分の作品だと思っていることになります。絵師というのは自分自身で絵を描く人のことですから。

自身が描いていない上に、AIの学習方法に疑問点がある今、生成したものを自分のものとして公開するのには無理があるように思います。

仮に公開したとして、AIが作った著作権フリー素材ということで無償で誰でも使えるものとして公開するしかないように思います。

仕事の補助データとしては使える?

文章にしても、イラストにしても、制作者は制作時に多くの情報を収集すると思います。

資料の中には著作権のあるもの、著作権フリーのものが混在します。著作権フリーのものについては、一部あるいは全部をコピーし、あるいは加工して用います。その方が作業が早いからです。

著作権のあるもの、あるいははっきりしないものについては、そのまま使うわけにはいきません。参照することは可能ですので、イラストであれば、スケッチの素材に用いたり、構造の理解のために用いるといった範囲に留めます。

AIが生成した文章にしても画像にしても、元の情報に著作権があるかどうかが全くわかりません。わからないだけに、著作権のあるものとして補助的に用いるしかないように思います。

著作権違反行為を学習という言葉に置き換えている

情報処理技術が発達し、人間生活の向上に役立ってくれることについては大歓迎ですし、イラスト作成の補助機能として是非使いたいと思っています。

ただ、私的にはどう見ても著作権違反という犯罪行為を「学習」という一見するとキレイな言葉に置き換えているだけな気がします。著作権ロンダリングですね。

そうして、クリエーターらのクリエイティブな部分がなし崩し的に踏みにじられていくように感じられます。

こうした運用では、いくら新しい表現や技術を生み出したとしても、生み出した人間にはろくに利益が還元されません。

オリジナル表現を売り出したいなら、我社のシステムに登録して、AIに採用されたら少しだけ分け前をあげよう、てな具合に首根っこをつかまれる可能性もあります。

自分の立場を利用して優れたクリエイティブな人間を支配したくてしょうがないのでしょうか。

つまるところ、誰かを働かせて上前をはねるシステムに見えます。

何のことはない、それが目的なんでしょうかね。

そんなわけで、私からすると、ChatGPTをはじめとする「会話型AIに乗り遅れるな」は、どうにもプロパガンダにしか聞こえません。

問題点が明るみに出る前に、とにかく大多数の人間にまずは使わせる。大多数が当たり前のように使うようになってしまえば、後戻りするのが難しくなります。

「今更著作権とか言われてもねえ・・・」

てな具合に。

コンセプトはロボットと同じ

未だに完全なものができていない人型ロボットについては、事前にロボットの振る舞いについてのルールが定められています。例えば人間に危害を加えないように、というような最低限の禁則事項です。

AIについても同様のルールが必要なはずです。

イラストの場合、著作権に抵触する可能性のある入力表現を禁止しなくてはならないと思います。

例えば名のあるイラストレーターの名前〇〇を入れて「〇〇絵師風」というような入力は禁止すべきではないでしょうか。

絵師の絵を特徴づけているのは絵柄であることが少なくありません。「〇〇絵師風」と入れて、特定のイラストレーターの絵とそっくりな絵が出力されてしまっては大きな誤解が生じます。人間が真似をしたらパクったと批判されるような事例は禁止しなくてはならないのではないでしょうか。

AIを解禁する前に、こうした想定できる問題に対処しておく必要があるはずですし、リリースする人間もそのへんのことはよくわかっていると思います。

つまり悪意をもってリリースしていると個人的に妄想していますし、想像以上の問題が恐らく生じるであろうことを危惧しています。

日本人は神を信じてる?

7月8日の事件をきっかけになぜか統一教会自民党を叩く世論誘導が始まりました。

容疑者が統一教会と関係があったとしても、統一教会と事件とは直接関係がないのは誰から見ても丸わかりです。ところが、学校で教鞭をとる家の娘でさえ、問題の根源は統一教会だと思い込んでいます。教育者にしてこの状態です。多くの国民は本質を見失っているのかも知れません。

さて、その統一教会ですが、私自身その活動に参加したことがあります。45年前の出来事です。

十代の頃に出会った統一教会

大学に入ってすぐだったでしょうか。アンケートに協力して欲しいと言われ、「宗教に関心がある」に〇をつけたところ、「私たちの活動に参加してみませんか?」と勧誘されました。

目の前に男女二人の学生がおりました。二人とも統一教会の信者でした。

統一教会には興味はなかったのですが、宗教そのものには強い関心があり、彼らの活動に一度参加してみようと考えました。

活動と言っても教会に行ってみたり、信者のうちに遊びに行ったりと、お話するのが主体でした。そのお話の中には教義を学ぶ時間もあったかも知れません。ただ、そうしたお勉強をしたという記憶はほとんど残っていません。

そもそもその内容が全く頭に入ってこなかったのです。

すべてのお話が神様を主語に始まる

キリスト教をはじめとする宗教には聖書のような経典があります。

統一教会にもそうしたものが恐らくあったと思います。その内容はほとんど覚えていませんが、講義の際、教会指導者はプリントを渡し、教義のようなものを伝えようとしていたことをおぼろげながら覚えています。

内容が全く頭に入ってこなかった理由のひとつは、内容の多くが「神様」で始まっていたからです。

宗教だから当たり前だろうと思われるかも知れません。

ですが、当時の私は、(今もですが)宗教についての知識も経験もなかったことやひねくれた性格からか、彼らの言っていることを全く受け付けなかったのです。

要するに、何度話を聞いても、どれほど諭すように繰り返されても、私にとっては無意味過ぎて、それに耐えられなかったのです。ついには指導者の方にこう質問したと記憶しています。

お話の内容はシンプルで意味はわかるのですが、そもそも(統一教会の)神様を信じない限り成り立たないので理解できません。

指導者の方は、それが宗教というものだから、とにかく神を信じてくださいと答えられたように思います。

あなたは、統一教会を信じたいから、あるいは信者だからここにいるのではないのか? 

彼はそう思っていたに違いありません。

統一教会にのめり込んだ人たち

私を誘った男性信者は、

「私は、女性を見ると我慢できない質でした。そんな私を救ってくれたのが統一教会です」

自らが統一教会に魅せられたいきさつをそのように話してくれたことがあります。

そう語る彼の目は、おまえも男だから俺と同じだよな、と言いたげでした。

当時の私の年齢は18か19だったと思います。お盛んな頃だったかも知れませんが、それでもさすがに女性を見ただけで我慢できないということはありません。

「いや、それはないです」

そう答えながら、目の前の先輩に対し「あなたタダの変質者ですよ」と心の中で批判していたような気がします。

ためらいなく否定する私に対して、女性信者のひとりは、

「じゃあ、私試してみようかな?」

と言います。

ただのエロオヤジに成長した今なら「ムフフ」とほくそ笑んだと思いますが、当時の私は、「くだらない」と思っていたようです。

人の弱みをついてくる?

男性信者の入信のきっかけは彼がコンプレックスを感じている部分、いわば弱みを突かれたところにあったようです。

彼からそのきっかけに関する具体的なストーリーをうかがう機会はなかったのですが、もしかするとこれかなと思う出来事がありました。

教会の年配信者の一人に、心理テストをやってみましょうと言われ、ハイハイと軽く承諾しました。

いくつかの素材を並べて絵を描いてみろと彼女は言います。

何の先入観も、作為もなく、思ったままの絵を描きました。

するとその絵を見た彼女は、

「あらまあ、本当に今のあなたがそのまま出てるわね。あなた空っぽじゃない・・・」

勝ち誇ったような顔でそう言います。ちょっと違和感を覚えるほどの強い言い方でした。

空っぽというのは、自分の明確な意見がない、自分の主義主張というものがない、ということのようでした。それを聞き、ちょっとムッとしました。

今考えると確かにそのとおりです。受験勉強を経て大学に入ったばかりの若輩ですから、一般的な知識も社会経験も乏しいのは当然です。それまでずっと教科書や参考書ばらりをにらみ続けていたのですから、主義主張など持てるはずもありません。

何もないから(より多くのことを学びたいからこそ)ここにいるのだ。心の中でそう反発し、この団体に対する不信感が一気に高まったように思います。

最後は、悪魔になってしまった

そうした、話のかみ合わない状態が何か月か続いた結果、私の気持ちはすっかり冷めていました。

その後も彼らは、教義だったり、活動に関してだったり繰り返し繰り返しお話してくれたと思います。ですが、そもそも何一つ頭に入ってこないのです。

元々熱しやすく冷めやすいタイプです。しかしこのときはそもそも熱中すらしていません。私から興味を持って近づいたにも関わらず、何一つ得るものも心に響くものもなかったのです。

根っから信仰心に乏しい人間だと言われればそのとおりです。

しまいに彼らも根負けして、

「おまえは悪魔だ」

と悪態をつく始末。

もし私が信者だったら「悪魔」呼ばわりされることは、生き死にするほどに大変なことに違いありません。

しかし、煩悩にまみれた私はそれを聞き、ショックどころか、心からほっとしました。暗澹たる曇り空がスッと晴れたような爽快感を覚えたのです。

この瞬間を境に、統一教会との交流は一切なくなりました。

あなたは神を信じますか?

海外では、あなたは何教を信じてますか? は挨拶言葉のようなものです。

二十代の後半、米国に数か月滞在していた時に仕事仲間と話す(私はほとんど聞き役でした)うちに宗教の話題になったことがあります。

「どんな宗教を信じてるの?」と聞かれ答えにつまりました。

私が答えられずにいると、メンツの一人が「日本人は神道だよね?」と聞いてきました。

当時、英語なまりの「神道」が上手く聞き取れませんでした。聞き取れたとしても果たして神道を信じていると答えられたでしょうか?

結局、決まった宗教はない、つまり無宗教と答えたと思います。

無宗教と聞いた時の彼ら(米国人たち)の何とも言えない表情をおぼろげながら覚えています。

本当に無宗教なのか? 宗教なしで生きられるのか? 信じられない・・・。私のことを、よほど強い精神の持ち主か、あるいは神様に見放された悲しい人間に見えたのかも知れません。そんな複雑な思いを含んだ表情に見えました。

日本人の多くは、無宗教を自覚しているようですが、私は決してそうではないと思っています。

宗教観が違う

キリスト教などの一神教は信仰に努力が必要だと感じています。

努力しないと人の心が離れてしまうせいか、神様側も信じることを強制します。信じれば救われ、信じなければ救われないと交換条件のようなものを提示します。

日本人の宗教観は、そもそも一神教のそれとはずいぶんと異なるように感じます。

一神教を宗教とする人の訊く

「あなたは神を信じてますか?」

とか「あなたの信仰は何?」

は、一般の日本人には答えにくい質問な気がします。

そもそも日本の神様は、私たちが生まれたときから、常にどこにでもいます。

そんな空気のような存在の神様を、信じるも信じないもありません。

日本の神様が仮に人の姿で目の前に現れたとして、彼?、彼女?はきっとこう言うと思います。

「信じたければ信じればいい、信じたくなければ信じなくていい」

何だか元も子もないような言い方ですが、信じようが信じまいが八百万(やおよろず)の神はそんじょそこらにいて、我々に逃げ場はありません。

私的には八百万の神とは、万物の理(ことわり)に他なりません。

信じる信じないというよりも、疑う余地のない原理です。

そしてその神様はきっとこう言うと思います。

「あなたが私を信じても信じなくても、私はいつもあなたのそばにいますよ」

多くの日本人はそんな神様を心から愛していると私は信じています。

日本人にとっての神様は無理に信じなくてはならない存在ではなく、生まれながらにお互いに愛し合っている存在なのかも知れません。



 

 

 

 

派遣と強制労働との共通点

休日に外を遊びまわる子供の声が本当に少なくなりました。それがいつだったかははっきりしませんが、ある年を境に急激に少なくなったような気がします。

少子化の原因は経済でしょ

さて、この少子化の一番の原因ですが、単純に経済問題だと思います。

私が退職後にパート勤務に就いた時、30代、40代の男性らがやはり同じようにパートやアルバイトで勤務していました。その多くは派遣会社を通しての派遣社員です。

ご存じのように、派遣社員の給与は一般社員に比べて割安であり、加えてボーナスの支給はありません。そして、一般社員が年々昇給したり、出世する可能性があるのに対して、派遣はどんなにスキルが向上しようが、社員よりも熱心に仕事をしようが、職位が変わることはなく、時給は固定です。そして、通常は三年でお役御免になります。

一旦派遣社員として勤め始めたら、そこから脱するのは容易ではなく、派遣社員として働けなくなるまで務めることになります。

30代、40代の独身男性(中には女性も)が単純労働に就いているのは本当にもったいないことだと思います。

企業に都合の良すぎる派遣制度

誰も派遣社員になりたくてなっているわけでは決してありません。

この派遣制度ですが、必然的にできたものとは言え、あまりに企業に都合の良すぎる制度だと感じています。

結局のところ、派遣社員である限り、結婚するための資金を蓄積することは容易ではなく、仮に派遣社員同士で結婚したとしても、子育てするための経済的な余裕に乏しいのが実情です。

子育てが難しいとなると、結婚そのものに二の足を踏んでしまう人も少なくないと思います。

派遣と強制労働の共通点

ウイグル人に対する迫害が問題となっています。強制労働に加えて、虐殺や臓器売買、不妊手術などが行われているようですが、日本で暮らす我々にできることは、どうにかこうにか現場から逃れてきた人たちをかくまうのがせいぜいで、大したことができないのが心苦しいところです。

迫害や民族浄化などの国際的な犯罪行為についてはここでは触れず、強制労働に目を向けます。

恐らくウイグルの強制労働は生かさず殺さず、自由のない監禁状態で無給で働かされているものと想像します。

ウイグルの労働条件は犯罪であり、全くもってお話になりませんが、結果だけ見てみると、派遣社員もまたこの境遇に近いものがあります。経済的に生かさず殺さず、結果として子孫を増やすことができません。

派遣制度という名の民族浄化制度なのではといぶかってしまいます。

年代によって就職状況が大きく異なる

30代、40代の派遣社員が多かったというのは確かな話ですが、多くは団塊ジュニア世代です。次に多いのが50代で、彼らの多くはリストラで職を失っています。

リストラの場合は、同業他社の同ポジションに空きがある場合は、意外とすんなり就業できる可能性があります。

しかし、団塊ジュニアの場合はそうはいかないようです。

日本の場合、中途採用される人の多くは専門職です。多くは同業他社で専門職として勤めてきた人が募集対象です。そのため、中途採用される派遣社員は非常にまれです。派遣の仕事では、ゼロから育てられた一般社員なみのスキルを身に着けるのはなかなか難しいのです。

また、新卒はある程度安定した数が採用されますが、同世代人口が多い場合、どうしてもあぶれてしまう人たちが発生してしまいます。新卒で採用されない場合、その後の就職がさらに大変になります。

働き盛りと言っていい30代、40代が派遣のような低所得の単純労働に就いていること自体、日本全体の経済にとって大きなマイナスと感じます。

派遣会社と専門学校、専門職養成大学を合体させてはどうか

勉強を頑張り、よい大学に入って、よい企業や国の機関に勤める。

典型的な成功パターンのひとつです。決められた線路の上を走らされているようでつまらないと感じるかも知れませんが、少なくとも経済的な余裕や安定を得るための公式としては成立しています。

もちろんこの公式にとらわれず、自由な発想で自らビジネスを興し、成功させている人たちも少なくありませんので、自由を求める人は自ら動けばいいでしょう。

ただ、一般メーカーに憧れ、そこで設計したい、デザインしたい、営業したい、という人たちも少なくないと思います。メーカーや大企業でないと実現できない製品やサービスも少なくないからです。

そうした年代や社会情勢によってどうしてもうまく就職できない若い世代の人たちが、いつでも戦力として登板できるようなシステムがあればと思います。

そこで、ピンハネだけが目的の乱立する派遣会社と専門学校や専門職養成大学とを合体させてはどうかと考えました。仮にこれを人材派遣大学と呼びます。

派遣社員兼学生は、派遣で勤めて給与を得ながら一般企業の社員、特に専門職レベルのスキルや知識を常に学べるようにします。新卒で就職した社員が得られる知識やスキルと同程度の学びが得られるようなプログラムを用意します。社員と同等のパフォーマンスを保証することで彼ら、彼女らは即戦力として企業に中途採用される機会が増える可能性が高まります。

学費は免除が理想です。その原資は企業からの基金などで運用できないものかと思います。優れた人材をいつでも派遣してもらえたり、社員にできるとなれば、投資する価値はあると思います。

講師は、一般企業で専門職として勤めていた経験のある人たち。リストラされた専門職の受け皿にもなります。あるいは現役の社員でもいいでしょう。

こうしたいつでも使える専門職が増えると、結果的に今勤めている従業員の待遇が悪くなってしまう可能性があります。そこで、人材派遣大学は、安く人材を提供するのではなく付加価値のある人材の提供を目的とし、賃金交渉がきちんと行える機能を持たせられたらと思います。派遣社員、現役社員の双方に有利、不利が発生しないように調整できることが理想です。

このビジネスモデルって、派遣会社というよりも経営コンサルティング・ファームっぽくないですか?

原稿を書きながらそう感じました。



マスク信者は、自分が信者だと気づいていない

この間、新しい不織布マスクをひと箱買い、最初の一枚をつけてみたところ、おかしな臭いがしました。

さて、有事が発生しても、このマスクを中国から買い続けるのだろうか? 日本向けマスクに有害物質を入れられたらどうすんの? ていうか、そもそも輸出入が困難になって、マスクがないと騒ぐ奴がわんさか発生するのでは?

おかしな臭いをきっかけに、こんな妄想が沸いてしまいました。

マスクをしない奴は死刑!

さすがに2年以上マスクをし続けると、誰もかれもがマスクをしている状態が当たり前になってしまいますね。

ただ、この認識が行き過ぎると、マスクをすることが正義で、していないのは悪と、知らず知らずのうちに自分で自分を洗脳してしまい、本人は洗脳されていることに気づいていない。そんな状態に陥っているような気がします。

マスクをしている人だけが発病

コロナが日本に上陸したばかりの頃、十人ばかしの職場で私を含めた三人だけが風邪をひいてしまいました。

この三人に共通していたのは、三人が三人ともマスクをしていたことです。他の七名はマスクをつけていませんでした。

どういうわけか、この三人が順番に風邪をひき、順番に病休を取ることになったのです。

時期が時期だけに、病院も慎重でした。インフルエンザの疑いもあるからと、鼻の粘膜から体液を採取しての検査が行われました。

実のところ、インフルエンザだけの検査だったかどうかはわかりません。すでに病院にはコロナの情報が伝わっていた可能性もありますので、複数の疾病の検査が同時に行われた可能性もあります。

結果としてただの風邪でした。

何故マスクをしていた人だけが発病したのか

この不思議な現象は、未だに鮮明に記憶に残っています。

空気中の菌(あるいはウイルス、以下「菌」とします)の密度は、同じ職場にいた十名にとっては同じはずです。室内にいる間に吸い込む空気の量が同じであれば、吸い込んだ菌の量は同じはずです。いや、マスクをしている人の方が少ないはずです。それが何故、マスクをしている人だけが発病したのか?

今思えば、マスクの取り扱いが良くなかったのだろうと思っています。

例えば食事の際、はずしたマスクを無造作にテーブルの上に置いたり、ポケットに入れたりしていました。

マスクの裏表も特に意識していませんでした。不衛生な部分に指で触れ、そのまま食事を進めていたのでしょう。

今でこそ、マスクの取り扱いには神経を使っていますが、当時はそんな意識は全くなく、花粉症対策としてのマスクの扱いと同等の適当な扱い方をしていました。

マスク表面の菌の密度は、空気中のそれよりもかなり高く、一気に大量の菌が体に入ってきた場合、免疫システムが対処できずに感染してしまうのかも知れません。

対して、当時の室内の菌密度は通常の免疫システムで対処できる程度だったのかも知れません。

想像ではありますが、そう考えればつじつまが合います。

マスクは必ずしも万能ではない

こうした経験をしたおかげか、必ずしもマスクが万能というわけではなく、扱い方ひとつで凶器になってしまう可能性があることを痛感しました。

場合によっては、マスクをしていることで、菌をまき散らす可能性もないとは言えません。

誰もマスクをせず、発病している人もおらず、空気中の菌の密度もかなり低いスペースに、菌をたっぷりつけたマスクの人が入ってきたら・・・。もはや人間兵器です。

敵は目に見えません。どういった場面で、どのように対処したらよいのかの明確な判断は素人には困難でしょう。

ただ経験上言えるのは、マスクを過信し過ぎて「マスク=神」と考えるのは必ずしも正しくはないということでしょうか。

それこそ、有識者などによる検証で、実効性のあるマナーや現象についての明確な説明があればと思うのですが、関係省庁の意向を汲んだ有識者では、何の役にも立ちませんね。

 

【ひとこと言いたい】消費税は不要です

消費税が導入されたとき、何故暴動が起きなかったんでしょうね? 

当時も今も消費税には違和感しかありません。

内税+外税になったのでは?

相変わらず、政治オンチ、経済オンチです。ですが、そんな私でも世の中がおかしくなりすぎて、一般生活者がまともな生活が困難になりつつあるのは肌で感じられます。

タイトルの消費税ですが、導入時も今もその存在には違和感があります。

消費税導入の前はすべての物品には内税がかけられていました。内税なので金額に含まれていてその割合は買い手にはわかりません。そして物品に応じてその割合が上下していました。贅沢品ほど割合は高くなっていたと思います。

消費税は消費税という名の外税と思いますが、多くの物品は値段がそのままでさらに外税が加えられたという認識です。

消費税を導入するなら、本来の内税が撤廃されなくてはならかいと思いますが、すべての物品の値段が大きく下がったという認識はありません。そもそも元々の内税の割合が見えなかったわけなので、その金額が税無しかどうかの判断は難しかったと思います。

多少下がったとしても、そんなものかと思うしかありません。

税の導入の意義がわからない

消費税の導入の意義が未だによくわかりません。

消費税導入に前後して法人税が一気に下がりましたので、消費税の導入は法人税削減とのバーターに見えます。実際にバーターだったかどうかはわかりませんが、もしそうなら一般生活者がなぜ法人税の穴埋めをしなくてはならないのでしょうか?

法人税を下げた建前上の理由はいろいろあるかも知れませんが、法人税を下げた場合の効果としては、海外の企業が国内市場に参加しやすくなることや、国内の企業が税金分を社員の給与に回せるようになる、企業が設備投資などの投資に費用を回せるようになる、などが考えられます。

要するに経済活性化のために法人税を下げたように見えます。ならば、遅かれ早かれ経済活性化による税収が見込めるはずです。

一時的に税収が減る可能性はあるかも知れませんが、そこは国債で対処すればいいことになります。計画通りなら償還できますからね。

でもそうしなかったのは、元々上手くいかないことを知っていたか、意味のない増税目的だったということになります。

実際には安全保障費?

今の消費税分はほとんどが安全保障費、特に医療費に充てられ、それでも不十分とされています。

消費税は一般的な税収なので、どこにどう使われているかははっきり言ってよくわからないはずなので、あくまでも数字の上でのお話です。

医療費と消費税を見比べて、消費税だけでは足らないという局部的な見方をされてもなあ、という気がします。

消費税はなくせないと言いたいのかも知れませんが、一般生活者の生活を脅かしての安全保障って何なのでしょうね。

消費税が上がるたびに消費者は税対策をしている

そもそも法人税を下げた経済効果はどうなったのでしょうか? 

効果あったの? なかったの? なかったならまた法人税上げて、消費税を廃止したらいいのに。

少なくとも言えるのは、消費税により消費活動は下がりこそすれ、高くはなっていないと思います。そして一般消費者のひとりとして、消費税を廃止することで消費者の経済活動は一気に上昇すると自信を持って言えます。

そもそも消費税が上がるたびに、消費や奪われる税金を削減してきました。自己防衛ですね。多かれ少なかれ誰もがそうしていると思います。

大好きな酒も、特売以外では買わず、無ければ飲まないようになりました。かつては大掛かりなリフォームを計画していた家の補修も止めています。壊れたら、最小限の対応をすればいいだろう、というマインドに切り替わりました。

不公平感をなくしたい

こうしてみると、政府の経済対策の失敗のつけを払わされているのが一般国民ということになります。

本来の税金の役割は、不公平感をなくすことだと個人的には思っています。そのために消費税が必要ならそれはそれで構いません。

国民の金融財産が2000兆円あるそうなので、これを国民の数で割ると1600万円になるとどこかのサイトの記事にありました。赤ちゃんや老人も含めての数字なので、4人家族なら6400万円もの金融資産があるということになります。

そんじょそこらの一般生活者にそんな金融資産があるとはとうてい思えませんので、相当な偏りが生じているということでしょう。

本来より多くの税金を納めるのはそうした資産を抱えた方々であり、逆に資産に乏しい生活者には控除のみならず、補助がなされなくてはならないはずです。

仮に消費税を導入するとして、その税率には重みづけが必要です。つまり、贅沢品、高級品への税に重みをつけ、必需品である一般食材(一般消費者の最低限の生活保障のため)や勉強のための書籍など(国民の教育目的)への消費税は0パーセントでいいでしょう。

高い買い物ができるのはより多くの金融資産を持っている人でしょうから、完璧ではないものの、不公平感は多少削減されるような気がします。

そういう意味では、かつての内税の方がまだ公平感があったように感じます。

一部社会主義制度の導入

個人的には、国民一人一人に対して最小限の収入、補助金システムを導入して欲しいと考えています。ベーシックインカムというのでしょうか? 仮に「国民一律生活維持費」とここでは呼びます。

こうした制度は社会主義制度と言われるかも知れませんが、医療保険と考え方はいっしょです。

突然会社を解雇されたり、何らかの都合で働けなくなった場合にでも、最低限の生活費である「国民一律生活維持費」があれば、安心であるだけでなく、比較的容易に転職できます。転職しやすいことで、ブラック企業も削減できる可能性があります。無理して働き続ける必要はありませんからね。

企業が支払う給与は、補助金を差し引いた分でいいので、見かけ上の給与は下がるかも知れませんが、基本給の一部が「国民一律生活維持費」に置き換わったと考えればいいと思います。

一定の収入が保証されていれば、あえて大金をため込む必要はなくなります。その分消費活動が活性化する可能性があります。

国民一律生活維持費のマイナス面

「国民一律生活維持費」にはプラス面もあればマイナス面もかなりあると思います。

働かずとも食えるとなると怠けますよね。国全体が怠けてしまうと、国力が落ち、「国民一律生活維持費」自体の財源がなくなってしまいます。

なので「国民一律生活維持費」の額は生かさず殺さずの金額でいいはずです。

どうせ払う消費税なら国民一律生活維持費として活用しては?

そこで、今現在の消費税の税額を見てみると、平均的に毎年50兆円ほどです。これを国民の数1億人で割ると50万円になります。年間一人当たり50万円は生活するにはちょっときつい。でも4人家族なら200万円になります。

単に数字の遊びでしかありません。実際に導入するには多くのハードルがあることは承知しています。また、消費税はいらないと言いながら消費税を「国民一律生活維持費」に回せというのは明らかに矛盾しています。

ですが、どうせ払う税金なら、一般生活者の安心・安全な生活保障の確保、不公平感の削減を優先してはどうかという、あくまでもひとつのコンセプトです。

そもそも消費税は不要

ただ、そもそも消費税は不要です。この税が国民の生活を圧迫しているのは明らかで、本末転倒な税です。

必要と思い込まされている人もいらっしゃるかも知れません。ですが、消費税に限らず、多くの制度の必要性は理想的には実際の生活者が決めることです。自ら決定しようとしないからすべて他人にコントロール(支配)されてしまっている。そう感じています。

少なくとも今の自民党や行政のひとつである財務省の施策からは明確な国のあり方やコンセプトが全く見えてきません。国の場合はプリンシプルというのでしょうか。

プリンシプルがないのは国民の責任だと個人的には思っています。

国民一人一人ができるだけ具体的な自分たちの生活のコンセプトを打ち立て、国を変えていかなくてはならないと感じています。そうすることで国はようやくプリンシプルのようなものが持てるのではないかと思っています。

【ひとこと言いたい】今現在の社会の不安定はイデオロギー対イデオロギーによるものか?

日本だけでなく、今現在世界的に社会全体が不安定です。中でも日本は、経済成長が長らく止まったままであることに加えて、隣り合う国々からの脅威にさらされ、世界の中でも類をみないほど不安定なはずです。

「はず」というのは、日本人はのんきなせいか、まるで脅威を感じていない。というか無関心な気がするからです。

ネトウヨ対パヨク

このところよく視聴する動画コンテンツは、社会、政治、歴史関連がほとんどです。

ネット上のイデオロギーのぶつかり合いを代表する言葉にネトウヨ、パヨクがあります。どちらも相手を侮辱する言葉のようですが、互いにいつもこうした言葉で罵り合っているように見えます。

こうしたイデオロギーのぶつかり合いが不安定な社会の一要因になっているのでしょうか? 

これらは少なからず影響はあれど主要因とは私には思えません。

国会にはイデオロギーの異なる複数政党が存在できています。それに民主主義と社会主義は部分的には共存できるはずです。

一般生活者にとっては、社会体制そのものはさほど重要なものではないのかも知れません。

どちらかひとつというよりも、様々な体制を比較検討して、それぞれのいいとこどりをすればよいと思うのです。最終的には、自分の責任範囲で自由があり、安心・安全な生活が出来さえすればいいのですから。

ディープステート

最近ディープステートという言葉が新たに出てきました。グローバリスト対ナショナリストという言葉やネオナチという言葉もにわかに出てきました。

ネオナチは、その名称からしてひとつのイデオロギーに感じられますが、ディープステートやグローバリストの場合は、特定のイデオロギーを持った団体あるいは人というわけではなく、既得権益を貪る団体や人、つまりメーカーだったり、業界団体だったりということのようです。

では、今世界を不安定にしているのは、例えばグローバリスト対ナショナリストの戦いなのでしょうか?

アメリカのトランプ対反トランプはまさしくこの構図だと思いますが、日本はどうなのでしょうか。

日本のグローバリスト?

日本でいうグローバリストとは誰になるのでしょう? 

アメリカの構図からするとトヨタだったりソニーだったりがグローバリストになってしまうのかも知れません。

では、これら日本の大手企業が国際的なグローバリストかと言われると私にはそうは感じられません。ユニクロはちょっと何とも言えませんが。

では、次に政治関係者に目を向けてみます。与党にしても野党にしても、イデオロギーが混在しており、アメリカのようにトランプ側とそれ以外というようなきれいな構図には分けられません。

金権力に侵された者と、そうでない者

日本の一生活者の私から見ると、政治家にしても、企業にしても、はたまた医療機関にしても、金権力に支配されている者とそうでない者との間に大きな溝があるように感じられます。

金権力に溺れてしまうと、その甘さに我を忘れてしまいます。何をやってもいいと感じるほどに感覚がマヒします。自分自身の経験から自信をもってそう言えます。実力がないから一度ポジションを得るとなかなか手放せません。たまたま空いたポジションを得るとそれを実力と勘違いします。

会社での地位が上がるに連れ、私自身気持ち的に横暴になりました。自分にとって嫌なやつを裏から手を回して退社させたこともあります。また、給与が少しでも上がると、気持ちがにわか成金になりました。

自分自身、明日はクビになるかも知れないのです。そんなことはこれっぽっちも考えませんでした。そして、もらった分だけ大盤振る舞いするのが常でした。

小さな会社の小さなポジションでさえ、ほんのわずかな昇給でさえこれほど舞い上がるのです。大企業社員や官僚、政治家に至ってはよほど強く自分をコントロールしない限り金権力に支配され我を失って何をやらかすかわかりません。そして、やらかしても罪悪感すら覚えないに違いありません。

今ぶつかりあっているのは、このような金権力に侵された者金権力に負けない者のように見えます。そして、金権力に侵された者が優勢であることが社会の不安定の主要因に見えます。

そして世界に目を向けると

今一度世界に目を向けてみます。ディープステートにしても、グローバリストにしても、結局は金権力に支配され我を忘れた団体やメンバーの集合体に見えます。

自分たちが支配されているからか、こうした団体やメンバーは、他の団体や人を支配したがります金権力という名の寄生虫に侵され、精神を完全にコントロールされているようなものです。

この切口は、イデオロギーとか、与党、野党という分類とも異なります。

そして金権力は、欲の象徴、代表みたいなものですから、それに支配されない人は、精神的にも相当強くなくてはなりません。

自らの過去の経験上、金権力には容易に負けます。実力の乏しい、弱い人ほど負けます。

寄生虫を追い出し真の実力をつけるには、目の前の実力者以上に実力をつけるしかありません。実力のある強い人を目の前から排除したとしても、自分自身に実力がつくわけではありません

生活を安定させるには

日本の生活を安定させるには、やはり国民ひとりひとりが社会に関心を持ち、金権力に侵された政治家や官僚、あるいはメーカーを強い意志で変えていくしかないように思います。

自分のことはとりあえず棚に上げて・・・。

 

東京都は太陽光パネルよりも核シェルターを

今回から「社会」関連グループに参加しようと思います。新参者ですが、よろしくお願いいたします。

このところ、世の中のおかしなところが目立つようになってきました。その手の話題には事欠かないのですが、特に気になったことを取り上げ、自分なりに考えをまとめた上でひとこと言わせていただきたいと思います。

太陽電池よりも燃料を使った電源の方が将来性があるかも

東京都、というよりも都知事の独走で、新築住宅に太陽電池の設置を義務化しようとしているのはご存じのとおりです。

個人的には、地方自治体がこのような条例を作ることには基本的に反対です。

住宅を建てる個人が自由意志で設置するのは全く問題ないと思いますし、いざという時のための電力供給を確保するためにも意味のあることだと思います。

そうした個人の努力に対して補助するのは大いに結構です。

知事としては地球温暖化対策のつもりかも知れませんが、温暖化対策だけでなく災害時のことを含めて考えると、太陽電池よりも個人宅か地域ごとに設置した小型のガスタンクやガスボンベを使った燃料電池の方が将来の水素活用も見据えるとよりよい気がします。もちろん設置は自由意志でです。

太陽電池は気象次第

大学の専攻は電気関連で、卒論のテーマは気象状況による太陽電池の劣化に関する研究でした。

一年間太陽電池を自然にさらし、出力などの特性を日々記録しその劣化状態を論文にまとめるという実に地味なテーマでした。一年間太陽に当てていたら太陽電池は少なからず劣化します。しかし結果として太陽電池の劣化は驚くほどごくわずかでした。

その理由は学校がある地域が日本海側だったからです。私が観測を続けた一年で、雲一つない快晴の日は、1日あったかどうかです。晴れていたとしても空のどこかに必ず雲が浮いている。あの雲さえなければ雲一つない快晴と言えるのに、といつも残念に思いながら空を眺めていました。

つまり一年野外にさらしてほとんど劣化が見られないほど発電機能が発揮できていなかったのです。日本海側で太陽電池を使う場合は、常に出力不足の懸念があるということです。

太平洋側は確かに天候面では恵まれています。日本海側に比べれば有用かも知れませんが、日中しか発電できませんし、天候で大きく変化する不安定な電源設備です。

非常時用であっても燃料を用いた電池をメインとして、太陽電池は補助的に使うのがベターな気がします。

同じ費用をかけるなら最初に核シェルターを

新築住宅は、新しい設備を設置するにはいい機会です。古い家の場合、設置できる新たな設備に制限がありますし、設備だけだと有利なローンが組めない場合もあります。

折角の新築です。義務化するなら太陽電池よりも核シェルターの設置を優先して欲しいと個人的には思います。

戦争が起きる、などといたずらに煽るつもりはありませんが、何が起きてもおかしくはない今日この頃です。しかも少子高齢化に人口減少が続いている現状、できればひとりでも多く生き残って欲しい。

下のグラフは、株式会社シェルターさんのサイトにあったグラフから数値を引用し、新たに作成したグラフです。

韓国の300%の意味はわかりませんが、恐らく個人宅以外にも地域などで人口を十分にカバーできるシェルターが用意されているということなのかも知れません。

広大な敷地と、海に囲まれているという好条件のアメリカでさえ82%の普及率です。もっともアメリカの場合は、報復に備えているというのが実情かも知れません。それに加えて、自分の身は自分で守るという国民ひとりひとりの意識が強いせもあると思います。

この当たり前の意識が日本人には希薄です。

日本の場合は、地域の安全や保全を一人一人があるいは地域が担っていて、それが功を奏しているせいもあるからと思います。外国人の出入国が他国に比べて少ないこともあるかも知れません。平和ボケという意見もあるかも知れませんが、国内全体の平和が維持できているのは、国民ひとりひとりが小さなことに気をつけていることも決して侮れません。

もちろん国外からの軍事的侵攻を防ぐ役割は自衛隊に担うしかないのですが、いつでもどこからともなくミサイルが飛んでくる可能性のある今、個人や地域が対処できる新たな防衛手段を備えなくてはならないのは止むを得ないことと思います。

軍事産業に金を出したくはないが・・・

シェルターはお安くはありません。それだけで数百万円というお値段です。

核ミサイルの直撃をくらったら、シェルターに入っていたところで無駄かも知れませんが、有事は多くの場合、火災や熱線による被害が主体となりそうです。住宅の上物が焼けても、地下設備の中でどうにか生き残れるような屈強なシステムが必要になります。

電気やガスの供給は停止するでしょうし、長期に渡って空には黒い雲が漂い、雨となり、太陽電池はほとんど役に立ちません。もっとも屋根の上の設備は燃えてしまうと思いますが。

そんなわけで、備蓄した燃料による発電システムの方が小回りが利きそうです。

地域を不安定にさせることで軍需産業を潤わせるというグローバル企業の常套戦略に乗せられるのはしゃくですが、それと自衛するしないは別の話な気がします。

太陽電池よりも核シェルターを、工事の難しい人々のために空き家を買い取り地域シェルターの設置を

太陽電池の設置を義務化するとしても、都は少なからず補助を出すと思います。どうせ費用を費やすのであれば、やはりシェルターの方が優先度が高いように思います。

新築であれば、比較的シェルターの設置は容易かも知れませんが、既存の住宅の場合は結構難しいと思います。

住宅の地下への設置は立て直さない限り難しいでしょうし、設備が埋め込めるような広い庭のある住居はそう多くはないと思います。

有事に、都内、特にビジネス街や商業施設に存在していた場合、一時的に地下鉄や建物の地下に逃げるという方法がありますが、あくまでも一時的な避難だと思います。

そもそも地下鉄の構内って、核物質の侵入を防ぐような設備が整っているのでしょうか? 仮に何日か籠城することになったとして、食料や空調などが揃っているのでしょうか? 全然ダメな気がします。

そして郊外の場合は、そんじょそこらにそんな設備があるわけではありません。さらに首都圏全体を見た場合、その多くの面積を占めているのは住宅街です。

一案としては、現在人の住んでいない空き家を地域ごとに買い取ったり借用し、シェルター化してはどうかと思います。地区ごとの人数に合わせてバランスよく点在させることです。

有事に使おうとしたら食料も防具もスッカラカンだったら元も子もありませんので、平時は地域のコミュニティ施設や防災活動の場として使い、犯罪者の侵入を防ぐようにします。

こうした施設や活動を中心に、地域の安否確認も年に一回9月1日だけでなく、月レベルで行えば、高齢者(孤独死)や若年層(虐待など)の平時の安否確認にもつながりやすくなります。また、当然ながら自然災害時の活用もありです。

どうせ税金を使うというのなら、そうした目に見える安全・安心への取り組みに対して使って欲しいものです。

そして、東京都の条例の内容が「C国製太陽光パネルの使用は一切禁止」であれば、かつての石原都知事並みのカッコよさを感じると思います。