日本人は神を信じてる?
7月8日の事件をきっかけになぜか統一教会と自民党を叩く世論誘導が始まりました。
容疑者が統一教会と関係があったとしても、統一教会と事件とは直接関係がないのは誰から見ても丸わかりです。ところが、学校で教鞭をとる家の娘でさえ、問題の根源は統一教会だと思い込んでいます。教育者にしてこの状態です。多くの国民は本質を見失っているのかも知れません。
さて、その統一教会ですが、私自身その活動に参加したことがあります。45年前の出来事です。
十代の頃に出会った統一教会
大学に入ってすぐだったでしょうか。アンケートに協力して欲しいと言われ、「宗教に関心がある」に〇をつけたところ、「私たちの活動に参加してみませんか?」と勧誘されました。
目の前に男女二人の学生がおりました。二人とも統一教会の信者でした。
統一教会には興味はなかったのですが、宗教そのものには強い関心があり、彼らの活動に一度参加してみようと考えました。
活動と言っても教会に行ってみたり、信者のうちに遊びに行ったりと、お話するのが主体でした。そのお話の中には教義を学ぶ時間もあったかも知れません。ただ、そうしたお勉強をしたという記憶はほとんど残っていません。
そもそもその内容が全く頭に入ってこなかったのです。
すべてのお話が神様を主語に始まる
キリスト教をはじめとする宗教には聖書のような経典があります。
統一教会にもそうしたものが恐らくあったと思います。その内容はほとんど覚えていませんが、講義の際、教会指導者はプリントを渡し、教義のようなものを伝えようとしていたことをおぼろげながら覚えています。
内容が全く頭に入ってこなかった理由のひとつは、内容の多くが「神様」で始まっていたからです。
宗教だから当たり前だろうと思われるかも知れません。
ですが、当時の私は、(今もですが)宗教についての知識も経験もなかったことやひねくれた性格からか、彼らの言っていることを全く受け付けなかったのです。
要するに、何度話を聞いても、どれほど諭すように繰り返されても、私にとっては無意味過ぎて、それに耐えられなかったのです。ついには指導者の方にこう質問したと記憶しています。
お話の内容はシンプルで意味はわかるのですが、そもそも(統一教会の)神様を信じない限り成り立たないので理解できません。
指導者の方は、それが宗教というものだから、とにかく神を信じてくださいと答えられたように思います。
あなたは、統一教会を信じたいから、あるいは信者だからここにいるのではないのか?
彼はそう思っていたに違いありません。
統一教会にのめり込んだ人たち
私を誘った男性信者は、
「私は、女性を見ると我慢できない質でした。そんな私を救ってくれたのが統一教会です」
自らが統一教会に魅せられたいきさつをそのように話してくれたことがあります。
そう語る彼の目は、おまえも男だから俺と同じだよな、と言いたげでした。
当時の私の年齢は18か19だったと思います。お盛んな頃だったかも知れませんが、それでもさすがに女性を見ただけで我慢できないということはありません。
「いや、それはないです」
そう答えながら、目の前の先輩に対し「あなたタダの変質者ですよ」と心の中で批判していたような気がします。
ためらいなく否定する私に対して、女性信者のひとりは、
「じゃあ、私試してみようかな?」
と言います。
ただのエロオヤジに成長した今なら「ムフフ」とほくそ笑んだと思いますが、当時の私は、「くだらない」と思っていたようです。
人の弱みをついてくる?
男性信者の入信のきっかけは彼がコンプレックスを感じている部分、いわば弱みを突かれたところにあったようです。
彼からそのきっかけに関する具体的なストーリーをうかがう機会はなかったのですが、もしかするとこれかなと思う出来事がありました。
教会の年配信者の一人に、心理テストをやってみましょうと言われ、ハイハイと軽く承諾しました。
いくつかの素材を並べて絵を描いてみろと彼女は言います。
何の先入観も、作為もなく、思ったままの絵を描きました。
するとその絵を見た彼女は、
「あらまあ、本当に今のあなたがそのまま出てるわね。あなた空っぽじゃない・・・」
勝ち誇ったような顔でそう言います。ちょっと違和感を覚えるほどの強い言い方でした。
空っぽというのは、自分の明確な意見がない、自分の主義主張というものがない、ということのようでした。それを聞き、ちょっとムッとしました。
今考えると確かにそのとおりです。受験勉強を経て大学に入ったばかりの若輩ですから、一般的な知識も社会経験も乏しいのは当然です。それまでずっと教科書や参考書ばらりをにらみ続けていたのですから、主義主張など持てるはずもありません。
何もないから(より多くのことを学びたいからこそ)ここにいるのだ。心の中でそう反発し、この団体に対する不信感が一気に高まったように思います。
最後は、悪魔になってしまった
そうした、話のかみ合わない状態が何か月か続いた結果、私の気持ちはすっかり冷めていました。
その後も彼らは、教義だったり、活動に関してだったり繰り返し繰り返しお話してくれたと思います。ですが、そもそも何一つ頭に入ってこないのです。
元々熱しやすく冷めやすいタイプです。しかしこのときはそもそも熱中すらしていません。私から興味を持って近づいたにも関わらず、何一つ得るものも心に響くものもなかったのです。
根っから信仰心に乏しい人間だと言われればそのとおりです。
しまいに彼らも根負けして、
「おまえは悪魔だ」
と悪態をつく始末。
もし私が信者だったら「悪魔」呼ばわりされることは、生き死にするほどに大変なことに違いありません。
しかし、煩悩にまみれた私はそれを聞き、ショックどころか、心からほっとしました。暗澹たる曇り空がスッと晴れたような爽快感を覚えたのです。
この瞬間を境に、統一教会との交流は一切なくなりました。
あなたは神を信じますか?
海外では、あなたは何教を信じてますか? は挨拶言葉のようなものです。
二十代の後半、米国に数か月滞在していた時に仕事仲間と話す(私はほとんど聞き役でした)うちに宗教の話題になったことがあります。
「どんな宗教を信じてるの?」と聞かれ答えにつまりました。
私が答えられずにいると、メンツの一人が「日本人は神道だよね?」と聞いてきました。
当時、英語なまりの「神道」が上手く聞き取れませんでした。聞き取れたとしても果たして神道を信じていると答えられたでしょうか?
結局、決まった宗教はない、つまり無宗教と答えたと思います。
無宗教と聞いた時の彼ら(米国人たち)の何とも言えない表情をおぼろげながら覚えています。
本当に無宗教なのか? 宗教なしで生きられるのか? 信じられない・・・。私のことを、よほど強い精神の持ち主か、あるいは神様に見放された悲しい人間に見えたのかも知れません。そんな複雑な思いを含んだ表情に見えました。
日本人の多くは、無宗教を自覚しているようですが、私は決してそうではないと思っています。
宗教観が違う
努力しないと人の心が離れてしまうせいか、神様側も信じることを強制します。信じれば救われ、信じなければ救われないと交換条件のようなものを提示します。
日本人の宗教観は、そもそも一神教のそれとはずいぶんと異なるように感じます。
一神教を宗教とする人の訊く
「あなたは神を信じてますか?」
とか「あなたの信仰は何?」
は、一般の日本人には答えにくい質問な気がします。
そもそも日本の神様は、私たちが生まれたときから、常にどこにでもいます。
そんな空気のような存在の神様を、信じるも信じないもありません。
日本の神様が仮に人の姿で目の前に現れたとして、彼?、彼女?はきっとこう言うと思います。
「信じたければ信じればいい、信じたくなければ信じなくていい」
何だか元も子もないような言い方ですが、信じようが信じまいが八百万(やおよろず)の神はそんじょそこらにいて、我々に逃げ場はありません。
私的には八百万の神とは、万物の理(ことわり)に他なりません。
信じる信じないというよりも、疑う余地のない原理です。
そしてその神様はきっとこう言うと思います。
「あなたが私を信じても信じなくても、私はいつもあなたのそばにいますよ」
多くの日本人はそんな神様を心から愛していると私は信じています。
日本人にとっての神様は無理に信じなくてはならない存在ではなく、生まれながらにお互いに愛し合っている存在なのかも知れません。